Sunday, November 09, 2008

時間について Ⅰ

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毎日のように24時前後に帰っているとついつい「時間がない」と思ってしまう。
残業中、帰宅後寝るべき時間が訪れとき、日曜の夜…「時間がない」と思う瞬間は多い。
楽しすぎて時間が早くすぎてしまったという感覚とは全く違う。やるべきことは多いのだが、何かに時間が食い潰されたような感覚。いい感覚ではない。
今日は自戒の意味も込めて、時間についての考えをメモしておこうと思う。

時間には非常に大きな価値があるということには誰もあまり異論を唱えないだろう。活かさなければ意味がないという話もあるが、物理的に少しも時間がなければ活かすこともできない。つまり人生を如何様にもする基本的"材料"なのだ。使い方は人それぞれ。人生を構成する要素の中でも最もファンダメンタルなものの一つだと思っている。そして寿命に差こそあれ、とりあえずはほとんどの人に生まれたときに平等に与えられる。たまに非常に不平等で、生まれてすぐにその生涯を終えてしまう子もいるが。

この人生にとって大事なリソースである時間をどのように使うかは人の勝手で、人間は時間を何かと交換して生きていく。例えばこうしてパソコンのキーボードを叩くことに対しても自分の時間は対価として払われている。仕事をするのも、寝るのも、食べるのも、全て時間という資源を利用している。食べたり寝たりというのは人間がこの世に生まれた太古の昔からやっていることなのだろうが、いつしか人間は労働というシステムを取り入れるようになった。それは自分の時間を何か別の「もの」に交換するシステムとしての色を強くもっている。労働をして、その代わりに食べ物をもらうという具合。(詳しくはないが)おそらく時系列的にはその後だと思うのだが、お金というこれまた何かと交換して使うものが発明された。以後、人類社会では何かと交換して使う基本的リソースは時間とお金の2つになった。この2つ、もちろん性質は違うが、今ではお金の方が数段出世してしまった。お金は世の中にあるほとんどの"モノ"と交換可能で、モノとモノを交換する際の媒介機能も持っている。非常に便利で凄い力を持っているので人々はお金を欲しがる。ところが、もう一つお金という資源には時間とは決定的に違う特徴がある。前述のとおり、ほとんどの人は時間をもって生まれてくるが、お金を持っては生まれてこないということだ。これが何を意味するかと言うと、今の世の中では物質的な何かを手に入れるためには大体お金を経由するため、お金自体を手に入れなくてはならないということ。そしてモノをお金に換えてもいいのだが、そんなモノももっては生まれないので、唯一生まれながらにして持っている時間を使うことになる。これが現代版「労働」の仕組みで、働かなければ生きていけないというやつだ。

労働のシステムによって時間とお金の間に交換レートが生まれた。このレートは何によって決まるかというと、一つは時間提供者(=労働者)の本源的価値。その人だけが持つ能力があれば高くなるし、そうでなくても効率的に仕事ができるとか正確だとか健康だとか、いろいろな要素がある。もう一つは需給関係。これは経済学の教科書に書いてあることと同じ。世の中に自分の時間を売ってお金が欲しい人が溢れていて、一方でお金を払って時間を買いたい人がわずかだったら、当然レートは「お金高時間安」になる。円高ドル安とかと一緒。僕は個人的に時間の価値は非常に高いと思うのだが、どうも世の中を見ると俄然「お金高時間安」な気がする。例えばアルバイト。1時間¥800で働いたとき、その人はそのレートでお金と時間を交換したことになる。もちろんアルバイトによってお金以外のものを得て楽しんでいる人はそれでいい。こうした時間とお金の交換に付随する要素(楽しみ、悲しみ、経験、疲労感、成長…)はいろいろあるが、例えばそれがあまり感じられないときはどうだろう。単純労働で特に楽しくもないし、ちょっと疲れるぐらいという感じ。こういう労働って世の中に溢れてると思うし、自分もよくやった。お金があるなら他のことしてるよっていう時間の使い方。僕だけではなく多くの人が経験してるんじゃないかな。一方で、お金で時間を買うっていう例も身近に溢れている。まず人を雇っている側の人。もちろん総合的な労働力を買っているのだが、そこには時間を買っているという意味も多分に含まれている。自分でもできることを「これやっといて」とお金を払って頼むのは、その時間を自分が別のことに使うためにそうしているにすぎない。あとは、タクシーや電車なんかもそう。人間って歩ける生き物じゃなかったっけ?いやいや、労力と時間を交通費で買っているんです。もっと顕著な例が東京大阪間の新幹線と飛行機。新幹線で2.5hぐらいかけて行けばいいところ飛行機で50分ぐらいで行く人はより高いお金を払って時間を買っている。労力を省き、時間を短縮する機械を買うこともそう。お手伝いさんを雇うのもそう。時間を買っている例だ。

こうしてみると、やっぱり時間を売るときは安いのに時間を買うときは高くない?と思うのだが、それは現在の需給の関係上そうなっているにすぎないし、前述のとおり、時間はみんなが平等にもって生まれてきているものなのに対し、お金は後から手に入れるものだからだ。その辺りの議論はまた今度にするとして、言いたいのは、時間とお金は交換可能で、時間の価値はお金やモノに対して相対的に評価されがちだということ。こういう状況下では時間の価値は1時間どれぐらいとかそういう風に考えられる。物理的に定められた時間の長さで価値を決められてしまいそうなのだが果たしてそんなんでいいのだろうか?

最初に書いたとおり、時間というのは人生を如何様にもする材料なのだ。そりゃ生きていく上である程度は仕方ないけれど、お金やモノに交換していくだけじゃもったいない。もちろんそれで happy な人もいるから一概には言えないけど。少なくとも僕はただ1回の人生でそれじゃ嫌だ。
給与や賞与をもらうと、あらかじめ作ってあるExcelシートにそれを入力する。そうすると、累計や税率や時給がパッと出るようになっている。自分のコストを常に意識して働き、それに見合った value を出そうなんてビジネスパーソンごっこしてるけど、一歩ひいて自分の人生を考えたとき、「どうなんかね、コレ」って思ってしまうのもまた本音。特に大きな企業ゆえ、valueとか言うのも憚られるぐらいばかばかしい仕事もあって、それに対して1時間のコストいくらなんて考えながら残業していたら虚しくもなってくる。まさに時間の切り売りじゃないか。

今日は時間の交換能についてざっくりと。続きは次回。
ちなみに、大人が読むべきだと思う時間に関するテキストはミヒャエル・エンデの「モモ」。
小さいとき白黒映画で見てけっこうなインパクトがあったのを覚えていたが、また活字で読んだ。
素晴らしい作品。何とも言えない世界観。もし読んだことがない大人がいたら是非読んで欲しい1冊。


モモ <Michael Ende>

「ほんとうの時間というものは、時計やカレンダーではかれるものではないのです。」
p317にこうあります。
 

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