Sunday, December 30, 2007

国語力というか言葉力

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大人の「国語力」が面白いほど身につく! <話題の達人倶楽部(編)>

話し言葉として使われる言葉は日本語全体の「単語」の5%ほどしかない。
前書きでそう書かれています。よくよく考えてみるとその程度なのかもしれない。
ところで残りの95%はどうなっているのかといえば、書き言葉としてはもっと使うはず。
しかし、あまり使わない言葉の意味や用法は知らなかったり、うろ覚えだったりする。

日本人たるもの、もう少し自国の言葉を使いこなしたい。そういう思いでこの本を手に取った。
題名には「国語力」とあるが、なんとなく語弊がある気がする。言うなれば「言葉力」というところだろうか。何はともあれ、本書の cost performance はかなりのものだと思う。広く浅くかもしれないが、1coin で最低限の知識をつけられる。分量も値段もお手軽なので、「言葉力」に自信がないという人は手にとってみる価値はあるだろう。内容は以下の 8step

①とにかく間違いやすい漢字240
②いまさら聞けない四字熟語75
③どうせなら使ってみたい慣用句191
④同音異義語、使い分けの法則96
⑤誰も教えてくれない敬語の話105
⑥知らないと恥ずかしいカタカナ言葉54
⑦教養として覚えておきたい「国語」の常識97
⑧あなたの国語を豊かにすることわざ・故事成語99


個人的には④⑤⑥あたりは概ね大丈夫だったが、他、特に②③⑧は勉強になった。知らないものもけっこうあったので2回読み直して身につけた(つもり)。


勉強はさておき、四字熟語、ことわざ、故事成語は本当に言い得て妙というか、昔の人の知恵が詰まっているなとあらためて感心せずにはいられなかった。

<pick up>
・窮鼠猫を噛む
・青は藍より出でて藍より青し
・角を矯めて牛を殺す
・鶏口となるも牛後となるなかれ
・雨垂れ石を穿つ
・自家撞着
・我田引水
・多岐亡羊
・山紫水明
・曲学阿世


漢文とかもう少し勉強してみようかな、とでも思えてくる。味わい深し。
 

Friday, December 28, 2007

Oscar Peterson

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A Summer Night in Munich

オスカー・ピーターソンを初めて聴いたのはこのディスクだった。
jazz を聴きたての頃だったが、すっかり酔いしれてしまったのを思い出す。
#5.サテンドール , #6.ラヴ・バラッド は言うまでもなく、比較的親日家として知られるピーターソンのオリジナル曲である #8. スシ は何度聴いても最高。まさに
jazz へのいざない、そしてオスカー・ピーターソンの世界へのいざないとなった。後で知ったことだがピーターソンは93年に脳梗塞で倒れ、このアルバムのレコーディング時には左手にまだ不自由があったのだ。それなのにピーターソンの音楽は圧倒的に自由だった。

そんな jazz piano 界の巨匠が12月23日夜、トロント郊外の自宅で逝ってしまった。82歳だったらしい。世界は今年、3大テノールの1人であるルチアーノ・パヴァロッティ(Luciano Pavarotti)も失ったが、このような真のアーティストの死は残念で仕方がない。

“鍵盤の皇帝”などとも言われたピーターソンだったが、テクニックの素晴らしさもさることながら僕はその happy な演奏スタイルが好きだった。スタンダードをやっても自作曲をやっても、なんだか happy な雰囲気がバックにあるような感じがするのだ。そのスタイルが jazz 本来のものなのではないかとも思えてくるぐらいだ。

今日は僕が聴いたピーターソンのアルバムのうちいくつかをここに載せて、ピーターソンの音楽を思い出すことにする。

  

Ⅰ)酒とバラの日々 ~ベスト・オブ・オスカー・ピーターソン~
Ⅱ)We Get Requests
Ⅲ)ソロ

   

Ⅳ)いそしぎ ~ベスト・オブ・ジャズ・ピアノ~
Ⅴ)Oscar Peterson Plays The George Gershwin Songbook
Ⅵ)Oscar Peterson Plays the Cole Porter Songbook

  

Ⅶ)Night Train
Ⅷ)Oscar In Paris: Oscar Peterson Live At The Salle Pleyel
Ⅸ)Blues Etude
 

Sunday, December 23, 2007

IQtest あれこれ

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IQ って何だ?
そう言われると、説明ができない。
僕が知っていたのは、“Intelligence Quotient”の略であって、日本語では知能指数と訳されていること。そして頭の回転の速さとか空間把握力の指標のように扱われていること。あとは誰それが IQ いくつだとかアメリカのライスさんが高IQだとか、MENSA なる高 IQ コミュニティがあるとか、そういうレベルのこと。
一つだけ言えるのは、IQサプリのような番組で IQ ○○相当とされている問題が1問解けたところで、その人はその IQ ではないということだ。完全に論理破綻している。

というわけで、手短なところで Wikipedia へ。

しかし、読んでもかなり曖昧。定義によってその数値の意味するところは変わってくるし、いわゆる頭のよさと相関があるかどうかも定かではない。
気がつくところといえば、その取り扱いに慎重で、かつ有識者はいざというときのために伏線をはっているということだろうか。

人間一人ひとりがもつ性質や能力、性格といったものは、2つの要因によって決定される。すなわち遺伝的要因と環境要因のことだ。このどちらか一方が人間の決定に影響しないということはほぼないのだが、たまに誤解されてしまうときがある。例えば、クローン技術が広く世に知れ渡ったとき世間ではヒトラーの複製が生まれてしまうのではないかという噂が生じた。確かにヒトラーと全く同じゲノム配列をもつ人間を作ることは可能かもしれないが、それでは遺伝的要因を押さえたにすぎない。そのベイビーを当時のヒトラーと完全に同じ環境で成人まで育て上げなければ、ヒトラーの複製はできない。これは到底無理だ。逆に、環境的な条件を全く同じにしてそれぞれ違う親から生まれてきた2人のベイビーを一緒に育てたところで、その2人は同一の人間にはならない。
ただ、人間の性質のうち、あるものは遺伝的要因の寄与が大きく、あるものは環境要因でほぼ全て決まる、というように2つの要因の寄与割合は性質によってある程度決まっているものだと思う(わからないが)。つまり何が遺伝して何があまり遺伝とは関係ないかが大体わかる未来がそう遠くなく訪れる。
今でもある程度のことはわかっているのだが、もっと細かくわかってしまう未来だ。

IQ も同様に人間の一つの性質であり、その遺伝的要因の寄与がどの程度なのかは今研究されているようだ。今のところ、その遺伝的要因の寄与割合はそれほどは小さくないとする考えが一般的だろう。
となると、IQ と知能とが関係あることが証明されてしまうとやっかいになる。
知能が高い親からは知能が高い子ができる傾向があるということが言えてしまい、さらには遺伝学的に民族を分けたときに知能の高い民族と低い民族がいるということが言えてしまう可能性が高いからだ。こうなると大変で、優生思想の蔓延る危険な世の中になってしまう。
知能というのは人間の性質の中でも、プライオリティーが高く、それに関係するかもしれない IQ の取り扱いには特別な注意がいるのだろう。
もしかしたら一部の人間はすでに知っているのかもしれないが(僕はこういうことに対しては非常に懐疑的)、基本的に、IQ の意味するところやその遺伝性質は Wikipedia の説明が曖昧さを多く含んでいたように、ブラックボックスの中だ。しかし、その箱がクリアになってしまったときに収拾がつかなくならないように、今慎重に扱う必要があるというわけだ。


とは言っても人間、自分の IQ は知りたいものだ。
子供の頃に、今思えば IQtest だったであろう試験を受けては結果が返却されないということがよくあった。上述の危険性のために個人個人が自分の IQ を知ることがないようにしているといった見方もできる。このような背景もあって、自分の IQ を知っている人はあまりいないだろう。
そして知りたい欲求と現実の制度とのギャップを埋めるように、IQtest サイトは数多く存在し、IQに関する TV番組も多い。テレビ朝日の「テスト・ザ・ネイション」などはその最たるものだ。
Wikipedia でも様々な IQtest の信憑性はないし、個人でなかなか測れるものではないとしているが、興味を持ったので、片っ端からやってみてサンプルを多くとってみた。
以下に僕がインターネットで集めてやってみた IQtest をちょっとした説明つきで並べてみるので、暇があったらどうぞ。ちなみに僕の場合、IQ 値が出るようなテストでは比較的テスト間のばらつきも小さく、意外に一定のレンジに収まった。

①世界でもメジャーな IQtest のベータ版
短時間で終わる。問題もけっこうやさしい。規則性問題のみ。
http://onemansblog.com/wp-content/uploads/2007/11/iqtest.swf

②世界でもメジャーな IQtest (①とほぼ同じ)
http://www.iqtest.dk/main.swf

③お試し版
とりあえず左の空欄12問をやって、大体のレンジを判定。
http://www.bergmandata.com/indexg.htm

④問題豊富
こちらのテストでは問題のジャンルが選べる。数字、図形、論理など、個別に問題に挑戦できるが、IQ 値を出すという主旨ではないような気もする。得意の Mathematical でも、レベルの高い問題はけっこう骨が折れる。普通にやっておもしろいサイト。ランキングもある。
http://www.iqtest.sk/index.php?jazyk=en&akcia=test

⑤バランス型
いろいろなタイプの問題が入っているが、知識系の問題もまじっていたりする。
それほど時間はかからない。
http://www.highiqsociety.org/iq_tests/

⑥欧州系
英語じゃない…が、IQtest に言語の壁はないので、読めなくてもできる。
内容はけっこうオーソドックス。
http://www.iqtest.websig.org/

⑦50問
variety に富んだタイプ。問題数は多いが、一つひとつがかなり軽め。
http://amadeus.upr.clu.edu/~carlose/Iqtest/iqtest.html

⑧10問。遊び度高し。
参考にならない。が、問題としてはけっこう楽しい。
http://www.afsgames.com/iqtest.htm

⑨異種
もはやゲーム。これはこれで楽しい。頭の体操か。
http://w1.nirai.ne.jp/h-kane/javalab/iqtest.html

⑩普通
難易度的にはやさしい問題が並ぶ。短時間でできる。
http://met.chu.jp/test/iq.htm

⑪15問
けっこう面白い。問題は他のとは違うタイプ。
http://shindankan.com/iq/

⑫問題難易度ちょうど良し
非常に簡単なものから、中ぐらいのものまで。
しかし僕の場合、全部やったのに結果が見れなかったという悲しいオチがあった。よって⑫番目。
http://derutcarf.s7.xrea.com/etc/iq/

以上。
 

Thursday, December 20, 2007

デザインとしてのキノコ

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キノコに対してどんなイメージがあるだろうか。
僕の第一のイメージは食用のキノコよりはむしろ鮮やかな毒キノコだ。右の写真はベニテングタケ。幼いときに読んだキノコの図鑑には興味深い形と奇妙な色を併せ持ったキノコの写真が並んでいた。

見た目の興味深さとは裏腹に、キノコの「食」の機能に対しては僕はどうも消極的だ。あまり好んでは食べない。健康にはいいはずなのだが、菌類としてのイメージが食感や香りを僕に良くないものとして認識させているらしい。余談だけれども代表的な食用キノコを抵抗無く食べられる順に並べると、個人的には次のような序列になる。

きのこの山(Meiji)→マツタケ→マッシュルーム→エリンギ→しいたけ→しめじ
→まいたけ→えのきたけ→なめこ
(トリュフ、アガリクスは未食)

チョコ党の僕にとってはマツタケをもってしても明治「きのこの山」に勝てないのが現状だ。

ところで、上の写真のテングタケ、軸の部分を縮めるとマリオに出てくるキノコになる。

今やキノコのイメージとして食用と同等の強さを持っているのが、この2頭身、いやそれ以上に頭でっかちなアイテムキノコだろう。
左の写真はUFOにつかまりそうになっているキノコたち。ちゃっかりクリボーも写っている(実はコイツもキノコ)。
食べるものとしてのキノコに対する評価が厳しい僕も、デザインのもととしてのキノコには注目している。

キノコをキャラクターにしたものはマリオのキノコだけではない。NTTドコモのドコモダケは人気が出たし、教育テレビのえいごリアンもいい味を出している。食用キノコを売る会社もキャラクター作りに余念がなく、ブナピーなどの「きのこ組」なるキャラクターも人気だ。
    
キャラクターのみならず、キノコをモチーフとしたアイテムは世の中に多々あるし、多くの人にポップなデザイン、かわいいデザイン、もしくは不思議な感じのするデザインなどとして受け入れられている。

人々はなぜこのようなデザインのもととしてのキノコを好むのか。

往々にしてポップなキノコデザインはテングタケのような毒々しい色を放っている。キノコのうち圧倒的多数は地味な色だし、代表的な食用キノコにいたっては全部が地味な色だ。それなのに、人々のイメージに刻まれていくのは非日常的なキノコばかり。
僕が思うにはこのルーツは「メルヘン」。
メルヘンといえば、どうも静かな森とその中で繰り広げられるストーリーを想像してしまう僕だが、そのイメージ上でのメルヘンの森の中には必ずといっていいほど色鮮やかなキノコが生えている。緑と茶色の森を不思議な感じにする、そしてストーリーに明るさを生み出すのがキノコの役目なのだと思う。
幼い子供にミクロな視点で森の絵を描かせたら、色鮮やかなキノコを描く子は多かろう。

恐るべし、キノコの存在意義、そして人々へのメルヘンキノコの浸透度。

ところで、ファッションにもキノコデザインは取り入れらている。
右の写真は先日買った帽子。冬だし、ニットキャップが欲しいなと思っていたら、渋パルを何となく歩いていた僕の前にこの帽子が現れた。
何やら帽子からボコボコとしたものが出っぱっているが、これはキノコデザインらしい。普通の黒いニットキャップに突起物という遊び。やられてしまった。

ポップなカラーでなくてもそれとなくキノコを感じさせるのは、キノコ本来が持つ、「木などからポコッと生えているもの」というイメージなのだろうか。

この帽子は、FRAPBOIS(フラボア)のデザイナーだった、宇津木えりさんが2005年に立ち上げた mercibeaucoup, というブランドのもの。
このブランド、かなりポップ。というかなかなか笑えるアイテムが多い。ちょっとぶっ飛びすぎているので、僕にはブランド全体としては抵抗があるのだが、こうしたデザインは非常に面白いと思った。キノコのストールや手袋なども何だかかわいくて良かった。

いやはや、デザインとしてのキノコ、恐れ入りました。興味は尽きないです。

ちなみに、mercibeaucoup, の2008年東コレ映像はこんな感じ↓

http://www.yomiuri.co.jp/stream/jfw/mercibeaucoup.htm

実にメルヘン。
写真の黒い帽子はこのブランドの中で最も地味な1点だったり。
 

最後に、大多数を占める「地味」なキノコたちに敬意を表して、写真を。 グアム旅行時の1枚。
         toadstool @ Talofofo Falls Resort Park in Guam
 

Monday, December 17, 2007

ジャック・クリスピン曰く?

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グラスホッパー <伊坂 幸太郎>

久しぶりに読んだ伊坂作品。
軽さとスピード感を求めて読み始めたつもりだったが、イマイチすっきりしない感覚が読み終えた僕には生じた。相変わらずキャラクターが原色絵の具のような個性を出していて伊坂作品らしいとも思ったが、同時に好みによって感想がかなり割れてしまうような作品にも感じた。
僕が思うには、伊坂作品には内容や作品背景に反するような明るさがあるものが多く、それが独特なキャラクターと物語のスピード感にマッチして爽快感がもたらされる。ところがこの「グラスホッパー」では、いくら殺し屋小説とはいえ、簡単に人が死にすぎる。そう感じてしまうと、いつもの伊坂ノリでは読めないのかもしれない。
巻末の解説でも少し触れられているのだが、この作品は人間を世界の中心と見るのではなく、一つの構成要素と見なすという考え方をしているように感じるところがあった。解説で杉江松恋さんは『だからこそ「グラスホッパーでは、人間は淡々と「破壊」されるのである。』と述べているが、頷ける。

最近、馴染みの美容師とめずらしく真面目な話をしたのだが、その話を思い出してしまった。地球環境問題の話をしていて、ふと2人の考えが摺り合わされた先にあったのが人間のおかしな考えやふるまいだったのだ。それは、地球を人間の所有物、または人類全体という主が棲む家として何の疑問もなく議論を進める人間のスタンスのことだ。
「地球を守ろう!」、「地球を保護する。」
こういった文句は全て対象物が人間の棲みかとしての地球であるという暗黙の認識の下で発せられている。
[人間の棲み良い地球環境を守る」…良く考えてみれば少しおかしい話であることは誰しも気づく。
全生物的な見方をすれば、僕を含む人間というものは非常に傲慢な生命体である可能性が高い。

さて、そんな人間観や生物観が伺えてしまうこの作品は、3人の人物(鈴木、鯨、蝉)の視点で描かれるローテーション型もしくは、らせん型とでも言えるような形式で三つ編みのように進んでいく。
全く違うスタート地点から発進した3人がいずれ出会うことは予想できても、あまり最後の展開が読めない作品で、次へ次へとページをめくるしかない。
押し屋はどうなるのか…
鈴木は結局どうなるのか…
それは最後までわからない。

ところで、この作品には名言が多く飛び出したと思う。蝉の上司である男が崇拝するミュージシャンのジャック・クリスピン(架空)の名を使って単純でかつ意義深いフレーズが現われる。

『死んでいるみたいに生きていたくない』
『本当に国を導く人間は、政治家の格好をしては現れない』
『同じ場所に置かれたものは腐る』

などなど数多い。
他にも、ジャック・クリスピンの言葉ではないが、「危機感」についてなかなか鋭い洞察もあってなんだか兜の緒を締められた感じもする。


何はともあれ、伊坂作品の軽い文体には文字列自体に読者の肩のこりをほぐすような効果があり、次の作品へと弾みがついたところです。
 

Saturday, December 15, 2007

Another Earth

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前 entry では梅田望夫さんの書いた「ウェブ時代をゆく」のレビューをしたのだが、これに関連してもう少し考えたいことがある。
「ウェブ時代をゆく」内の言葉で、『もうひとつの地球』、『脳をネットに預け、他者の脳と接近』というものがある。前回のレビューでも key word として挙げたのだが、これらは新たな時代の「知」の在り方を表す重要な考え方だと思う。もうひとつの地球となったネット空間に僕たちは何かを預けるわけだが、その何かとは自分の知の一部のことだと僕は思っている。自分の一部というのがポイントで、今ある世界ともうひとつの世界に分散したものを足し合わせなければ100% の自分にはならないことになる。これを考えたとき、自ずと不安になってしまうのが「もうひとつの地球は安全か?」ということだ。ここだけは梅田さんのオプティミズムの波に乗っている僕でも目を瞑ることができない影なのだ。

攻殻機動隊というちょっと極端な例
「攻殻機動隊」というアニメ作品をご存知だろうか。僕はこの作品が好きな友人の家でDVD を少し観たことがある。この作品を簡単に説明するのは難しいので Wikipedia にでも飛んでさらっと予習してもらいたいのだが、非常に高度なネット社会が背景にある。「電脳化」という単語が key word として使われ、完璧なユビキタスネットワークが敷かれているこの世界では義体(サイボーグとしての体)技術も確立されていて、人間のうち体というシェルに対する中身の部分の重要度が非常に高くなっている。Wikipedia から引用すれば、『サイボーグとしての体(義体)と、人間個人としての、シェルに納められた脳という分離が起こっている。』というわけだ。これは何もこのアニメ作品の中だけでの話ではない。
臓器移植や再生医療の発達がしていく中で、「体(body)」がシェルであることが容易に予想されるようになってきている。移植された臓器に donor の記憶が残っていた例などもあり、はっきりとしたことは未だ分からないが、少なくとも人間の自我の多くは脳に依っている。再生医療が高度に発達した社会で僕が恐ろしいと考えるのは、一人の人間が脳以外の体のダメになった部分を作り直して生きながらえている図だ。攻殻機動隊の妙なリアリティは、人間は脳以外の部分はどうやら交換可能だという「body=shell」のイメージと、完璧なユビキタスネットワークがいずれ完成するだろうという予感とをベースにして生み出されているのだろう。

安全性?
攻殻機動隊の任務の一つがこうした社会で起こる種々の問題の解決なのだが、作品中では脳や人格そのものがハッキングされてしまうという事態が起きたり、ウイルスの蔓延が起きたりするなど、問題を例示し始めれば枚挙に遑が無い。この作品は究極に近い状態なので、今急にそんな心配をしても仕方がないのだが、新しいウェブ時代を迎えるにあたっては、「もうひとつの地球」の安全性を考えないわけにはいかない。もうひとつの地球が安全であるためには、その世界での秩序と、その世界を支えているリアル世界のインフラの2つが非常に重要だ。ネット空間が anarchy では安心して自分の一部を預けることはできないし、リアル世界のインフラがダメになってしまえば、預けておいた自分の一部が行方不明になってしまう。ネットを便利に使わせて頂いている身としては、なんだか麻痺してしまうところがある。あちら側に開かれたスペースはなくならないのだと。しかしそんなことはない。そのスペースを管理しているのは紛れも無くリアル世界のコンピュータたちだ。グーグルの異常なまでの利便性を生み出しているのだって数え切れないほどのコンピュータだ。そこにミサイルが飛んできたら、もうひとつの地球などなくなってしまう。

ではどう生きるか
ネット空間の秩序については、オプティミズムを貫けば、オープンソース的な仕組みによってルールが形成されて上手くいくような気がしないでもない。リアル世界が法律を差し込むことで秩序を作ってもいい。ただ、こればかりはどうなるかわからない。同じく、もうひとつの地球を支えているリアル世界のインフラについても、上述のミサイルの例のような極端なものはなかなか起こらないかもしれないが、これまたどうなるかは分からない。
ではどうすれば良いのか。不安に目をやっていても前には進めないし、梅田さんが本を出し、ブログを書くことで世界に植えたエネルギーの種も芽を出さなくなってしまう。
僕としては最低限のリスクヘッジをしながら前に進むしかないと思っている。最低限のリスクヘッジとはもうひとつの地球がたとえ消えてしまってもやっていけるようにすることだ。もともともうひとつの地球なんて無いのだから死なない限りやっていけないなんてことはないと思う人もいるかもしれないが、果たしてどうだろうか。記憶することを全面的にもうひとつの地球で行っていたとすれば、そこが消えたとき手元には何も残らない。
少しずつ少しずつの変化は僕たちを麻痺させる。以前は紙の形で所有していた写真を「こちら側」の PC 内で管理するようになり、今ではウェブアルバムのような「あちら側」に預けている。僕たちの感覚では写真を保有していることになるが、もうひとつの地球が消えてしまったときに守れない写真を本当に保有していると言えるのだろうか。写真であればまだしも、人間生活の大切な部分を自分では守りきれないところで全面的に行うのは危険ではないだろうか。ウェブ進化によって「知」の在り方が大幅に変化する。これはチャンスだ。しかし、そこに依存しすぎることはリアルな世界での危険を意味する。交友関係を例に挙げても同じだ。SNSやブログ上での交友関係に依存しすぎていて、ある日突然その空間がなくなったときに何も残らなくなってしまう人が多発することは、現時点でも十分危惧される問題だ。だからこそ最低限のリスクヘッジをするに限るのだ。これから2つの地球で暮らしていく者として、定期的に2つの地球外のどこかから自分の様子を俯瞰してバランスをとっていきたい。
地球が2つになって、1つの時より幸せな人生を送れますように。I wish.


そういえば
前回のレビューを梅田さんにブックマークして頂いた模様だ。
とんでもなく忙しいと思うのに、僕が書いた駄文をすぐに読んでもらえるとは…
ありがたいことです。う~ん…やっぱりいいですね、ウェブ時代。

「将棋」という key word がひっかかったのか、はてなブックマークには自動的に「ゲーム」のブログだとカテゴライズされてしまいましたが…(笑)
 

Friday, December 14, 2007

ウェブ時代をゆく

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ウェブ時代をゆく -いかに働き、いかに学ぶか <梅田 望夫>

ウェブ進化論に強い影響を受けた僕は、この「ウェブ時代をゆく」を発刊日に買った。発刊日に買えたのも著者の梅田望夫さんのブログ My Life Between Silicon Valley and Japan を見ていたからだろうか。
この1ヶ月ほど、いろいろあったので読書のペースも上がらず、つい先日読了した。買ってから読み始めるまでに非常に時間がかかったのが情けないところだ。
ところで、やはり本書はおもしろく、ウェブ進化論に続いて梅田さんのオプティミズムも健在で、読んでいてワクワクした。僕が思う各章のキーワードを挙げてから、その中のいくつかの項目についての所感を書くことによってレビューにしたいと思う。

<key word>
序章:「一身にして二生を経る」、「群集の叡智」、「学習の高速道路と大渋滞」
第1章:「知と情報のゲーム」、「もうひとつの地球」
第2章:「新しいリーダーシップ」
第3章:「けものみち」
第4章:「ロールモデル思考法」
第5章:「知的生産と知的消費」、「閉から開へ」、「脳をネットに預ける」
第6章:「古い価値観に過剰適応してはいけない」
第7章:「オープンソースのような仕事の仕方」
終章:「自助の精神」

著者の姿勢
あとがきの中で、梅田さんは
『本書は、まじめで一生懸命な若者たちの、そして昔そういう若者だった大人たちの心の中に、未知の世界を楽しむエネルギーが生まれてほしいと思いながら書いた。』(p.243)
と、どういう姿勢で本書の執筆にあたったかを述べているが、ウェブ進化論とこの本を通して僕にも梅田さんの感じるエネルギーが生まれたと思う。ウェブが持つ性格(p.14,15)もさることながら、梅田さんのオプティミズムを支えるのは、やはり個人の「志」なのだと強く感じた。この本を読んでいてなぜか元気が出るのは、繰り返し、繰り返し、以下の公式が発信され続けているからなのだろう。
すなわち、
「ウェブ」×「志」=「個をエンパワーする人生のインフラ」
という公式のことだ。

表面的に見れば、ウェブ進化論は新しい時代を作るウェブの力を分かりやすく世に知らしめる本であって、ウェブが主役だった。しかし、本書では主役は完全に僕たち人間に移る。ウェブ進化は「機会」であって、それをいいものにするのも悪いものにするのも志次第なのだ。梅田さんが本書を通じて伝えたかったのは、ウェブ進化をいい機会とするためのマインドセットなのだと僕は強く確信している。

大渋滞を抜けるには
羽生さんが高速道路論を簡単に言語化できたのには納得できるところがある。僕自身将棋を長くやっていたため分かりやすいのだが、将棋界ほど学習の高速道路化によって大渋滞が起きることが明白なフィールドはない。プロになれる、そしてその後も上に上がれる人数がはっきりと決まっているため、レベルの底上げが起きても同じようなある一定の高いレベルの中から「自分だけ」が上に上がる力が無ければ生きていけない。その状態がまさしく大渋滞なのだ。羽生さんの説によってまっさきに頭に浮かんだのが奨励会の三段リーグという、生きるか死ぬかの辛い戦いの絵だった。梅田さんは大渋滞を抜けるためには「高く険しい道」を行くか、道なき「けものみち」をいくかのどちらかだと述べているが、高く険しい道は今よりもさらに険しくなることは間違いないと思う。高く険しい道というのは出口の人数が限られているし、柔軟さに欠けるからだ。だから梅田さんはけものみちを突き進むための力が大切だと説くのだろう。けものみちは何でもありの柔軟な道で、人数だって限られない。この道を進むことができるか否かがその人の自由な人生の可能性を決める。

コミュニティの信頼を
新しい時代では新しいリーダーシップの形が歓迎されていくということがオープンソースなどの具体例を挙げつつ述べられていた。さらにはクレイグスリストの例を通して、事業のあり方も変わってくるという可能性も示唆されていた。この例では『事業上の利益を追求しすぎると、コミュニティの信頼を失う』というクレイグの考えが紹介されていた。これを読んで思うのは、日本の SNS のリーディングカンパニーである mixi のことだ。mixi は日本人の気質と海外の SNS の成功例を上手く融合させながら多くの会員を獲得することに成功したが、最近はすっかり一人勝ちの図が鼻につくようになってしまった。同業他社に対しての一人勝ちではなく、会社とユーザーすべての中での一人勝ちということだ。mixi の広告収入は誰が考えても莫大で、それがユーザーに対して一切還元されていないのが非常に危ういと僕は思うのだ。mixi を開けば広告だらけなことに気づく。そして、レビューもアマゾンにダイレクトにつながっているのに、その収益はレビューアーではなく mixi 独り占め状態だ。mixi の提供するものは SNS という今ではありふれたサービス自体と「あちら側」のスペースだけであって、非常に企業対ユーザーの関係が不公平な状態にあると思う。今のままの体質では新しいウェブ時代をゆく個人のマインドセットには合わないだろう。

ロールモデル思考法
梅田さんのエピソード付きの、第4章は気づかせられることが非常に多かった。特に p.142~のロールモデル思考法のコツはためになった。一文だけ引用すれば、
『「時間の使い方の優先順位」を変えるにはまず「やめることを先に決める」ことである。』
ということだ。この短い文にシビれてしまって、なかなか次のページへ進めなかった。

知的消費と知的生産
これは例えば、本を読むことと、こうしてレビューを書くことだ。本を読むこと、情報を得ることだけでは知的消費にすぎないということが述べられている。ブログなどのお手軽な知的生産のツールが存在する現代ではやはり output を重視していかなければならないことを再確認。

閉から開へのマインドセットの転換
オープンソースというのは今でも不思議でならない。なぜちゃんと work するのか…。
みんなが「開」のマインドセットを持ったとき、オープンソースの例ではないが、この世界の知的生産はより良くなるだろうとは僕自身、本書を読む前から感じていた。ビジネスをやっている企業の研究機関ならともかく、アカデミックな世界でも論文発表には歓喜と落胆のドラマが付随する。アカデミアたちの世界は小さな研究室単位の前進が断続的に繰り返されていて、出し抜き合戦だ。その結果、研究の発展は決してスピーディーではないし、捏造の例も後を絶たない。オープンで連続的に研究が進めばどれだけ理想的かといえばそれは今の比較にはならない。今の社会事情ではなかなか難しいのかもしれないが、オープンソースのような仕組みがいろいろな知的生産の現場に広がれば、世界はもっと面白くなるだろう。

開かれた自由
最後に、本書の中の梅田さんの考えを引用してこのレビューを締めくくりたいと思う。
すっかり梅田さんの虜になってしまった僕だが、この考えを噛みしめて次代をゆこうと思う。

『ウェブ進化によりどういう自由が現代人には開かれたのか、と考えるとき、私は、リアル社会の環境の制約、つまり住む場所や生まれながらに属するコミュニティなどが相対化されて、自らの志向性にあわせた共同体へ移行する自由が与えられたことなのではないかと思う。』(p.82)
 

是非みなさん、明日にでも「ウェブ時代をゆく」を読んでみてください。
 

Thursday, December 13, 2007

ウェブ進化論

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ウェブ進化論 ‐本当の大変化はこれから始まる <梅田 望夫>

「ウェブ時代をゆく」のレビューの前に以前読んだウェブ進化論の復習を少し。
世に出されたのは2006年春だったが、僕はかなり遅れてから購入した。
世間を騒がせたこの本はやはり面白く、ウェブ社会が急激な進化をしているとはいえ、今でもまだ賞味期限切れではないと思う。実際、遅れてから読んだ僕にも多大な影響を及ぼした本で、インターネットを利用する時間も読む以前より格段に増えたと思う。

Web2.0、ロングテール、グーグル、アマゾン、オープンソースなどのキーワードにからめて、次代の社会を語る。今でこそ誰でもこれらのキーワードは聞いたことがあるだろうし、当たり前のことのようにも感じられているが、本書を読むことで梅田さんがこれらのキーワードをどのように捉えているかが分かる。そしてその捉え方が非常に心地よいし、読者を attract する。
postscript に書かれているが、著者が“optimism”を意識して執筆したらしいこともあり、この本を読むと元気が出る。そして明るい未来も見えてくる。新しい社会の到来は、細かなところに目を向けるまでもなく、不安に満ちているもので問題も数多く発生する。しかし、このような日の出を見るような心持ちで書かれた本があってもいいだろう。 そういう意味でも、この本は価値ある「進化論」なのではないだろうか。

特に面白かった具体的内容を個人的に列挙させてもらえば次の5つだろうか。
・インターネットの未曾有の力によって新しいパラダイムと新たな経済圏が生まれ、やがてそれが拡大し、リアルな世界の構造さえも変えうるという考え。
・グーグルを中心としたそのような動きによって経済格差の是正がなされるという考え。
・ネットの「あちら側」、「こちら側」という考え。
・総表現社会到来の予言。
・無限大 × 0 = something という考え。

他にも本書の中には、思わずなるほどそうなのかとうなってしまう考えがちりばめられていて、単なる社会現象理解のための本とは一線を画する。梅田さんには、革命の中にいて革命を客観的に捉える力が人の何倍もあると思う。そしてそれのみならず、捉えたものを他の人にも知らせるための表現力がずば抜けている。小説以外でこれだけ読んでいて楽しい本は久しぶりで、1回も眉間にシワがよることがなかった。今になってももっと多くの人に読んで欲しいと思える本だ。
 

Monday, December 10, 2007

我が家の “機能 × デザイン”

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 <Max ファンヒーターⅡ>

寒い冬。そろそろ昨年買ったこの愛らしいデザインのファンヒーターを掃除して使おうと思う。
スイスの MATTI WALKER がデザインしたこのヒーターは独特のデザインで、motif となっているのはフェンシングの「面」。か細い3本足と鶏冠風のスイッチを合わせて全体を見れば、何だか歩き出しそうな雰囲気をもっている。カラーも非常にポップなラインナップで上の3色の他、たしかブラックもあった気がする。ちなみに我が家は暖を取るイメージそのものの fire red です。

<spec>
本体寸法 :W290×H368×D270 mm
本体重量 : 2.5 kg
消費電力 : 1000 W(最大)
生産国 : スイス

○ 暖房でない送風モードあり。音も静か。
△ 6畳程度までがキャパシティーかもしれない。我が家ではちょっと暖かさに欠ける面あり。


BOSE Mediamate II マルチメディア・スピーカーシステム コンピューターグレー <BOSE Mediamate II>

もう一つはこちら。PC などにつなぐスピーカー、いわゆるアクティブスピーカーです。
個人の音楽環境は、ますます PC 周辺に移ってきている。CD が売れにくくなった最大の原因として、中古市場や TSUTAYA を中心としたレンタル市場の確立が取り上げられていたのはもう過去の話。急速に、家庭の PC や携帯プレーヤーにダイレクトに音楽が配信される時代になりました。
iTunes の勢いは言うまでも無く last.fm や mF247 などの進化からも目が離せない。

そうした中で、コンパクトで無機質なデザインでそれなりにいい音をという目的で買ったのが、このスピーカー(僕が持っているのはブラックです)。 jazz や classical music を聴くので、さすがにアクティブスピーカーは必須だったのだが、PC 音源としては十分な音と cost performance に満足して、もう2年近く使っている。
アクティブスピーカーを使っていない人には自信をもって勧められます。難点といえば、少し上を向いているのでほこりが溜まりやすいというところぐらいでしょうか。

そういえば、この BLOG にも last.fm の radio をつけています。tag は定期的に変えていくつもりですが、jazz とか piano とかが中心になるかと思います。完全に個人的な趣味で。
最初は playlist player をつけていて、好きな曲を流そうと目論んでいたんですが、重いのであきらめました。ランダムな radio になりましたが、その分発見もあるということで。
  
 

Saturday, December 08, 2007

see my own fashion with my other eyes

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深夜に眠くもなっていたのだが、先ほどの電話でふと fashion の話が出たのがきっかけで、自分が現在抱いている fashion観が何となく言語化できるような気がしたので、寝て忘れてしまわないうちにここに記しておこうと思う。

まず最初に、別に fashion というものの在り方を述べる気はまったくないし、何らかの意義を付与することが目的で書くわけではないことを注意されたし。ただ単に自分の fashion観をその変遷を追って現在に結びつけるのみだ。

phase1
購買能力に基づいた選択権をもつ、つまり真の意味において自分で fashion というものと対峙するようになったのは僕の場合中学生の頃だろうか。もちろん小学生の頃でも服や持ち物には興味がないわけではなく、identity の一部となっていたことは事実だが、ここでは購買能力をもったときを開始点としよう。
さて、自分の着るものを考えるようになり、お金を出して服を買おうと思ったのにはどのような理由があったのか?
そもそも fashion というものが、人間のみが感じるものだと勝手に定義することはそれほど乱暴ではないだろうから、ここではそうしよう。(熊と仲良くなるために熊の着ぐるみを着る人がいるかもしれないが、動物は広い意味での環境に含めてしまうことにする。)
fashion を考えたり、fashion それ自体の存在理由が結局は人のためということを思考の出発点としたわけだが、そうするとまず人というのを2種類に分けたくなる。
「自分」と「それ以外の人」だ。
それに対応して fashion に興味が起こる理由はストレートに自分のためである場合と、回りまわっては自分のためだが、間に「それ以外の人」が介在する場合とがある。一例として、前者は寒いから厚手の上着を着るという単純なケース、後者は他人に認められるために高い服を着るといったケースがあげられる。

ある種の年齢層が fashion に興味を持ち出す原因として、僕がパッと思いつくのは以下のようなものだ。
①比較的近くにいる同年代他者との比較によって
②タレントや年齢層的に上の世代など、あこがれの人との比較によって
③雑誌等にあおられて
④完全に内発的な興味によって

内観を基にすれば、④のケースは少ないのではないかと思う。④だと思っても、けっこう外部環境から影響を受けているものだ。僕も間違いなく①②③が原因だった。
①②③はどれも違うし、一見②なんかは他者を介さず、ストレートに自分と fashion がつながっているようにも感じるが、これらには決定的な共通点がある。基準が自分以外のところにあるという点だ。その点でどれも完全に④とは異なる。①や③にではカッコイイ/カワイイ、もしくはイケてる fashion という standard がつくられる。この standard と自分との間の差を埋めるために、他人の真似をし、雑誌を研究することになる。②も同様に、ある特定の対象によって基準がつくられる。この場合、自分の身近な環境では共通の standard はない場合も多いが、結局は他人基準に自分を近づけていくという営みになる。

こういう流れの中で、「お洒落」という概念は生まれる。
僕自身、中学生当時は Get on とか smart とかそういう雑誌を良く読んだのを思い出す。そしてそれが「お洒落」になっていった。
このフェーズでのポイントはとにかく基準が自分以外によってつくられる点だ。

phase2
外部基準による fashion の導入の次に重要になってくるのは多くの場合「他人の目」だろう。
スポーツができれば、ある対象からは認められる。テストの点数が良くても、これまたある対象からは認められる。同様にして、fashion も認められるためのものになっていく。他者基準の下で fashion がイケてれば、「お洒落」だと認められるし、異性にもモテるようになる場合が多い。これは自然というか majority な流れだとは思うのだが、こうなるといよいよ他人のための fashion になってくる。ここでは先ほどの「基準」の統一性・画一性が崩れ、独自性・個性といったものが重要視され始め、「お洒落」の定義は幅広くなっていく。fashion に対する興味は増大し、「お洒落」になりたいという欲求も増す。「お洒落」の基準はあまりなくなったので、自由度が増し、楽しくなる。fashion が好き!という内なる感情も強くなる。しかし多くの場合、自分がつくりあげた fashion を見るのは他人であり、結果的に他者を介した fashion となっている。

このフェーズでのポイントは他人に見られる fashion という点であり、自分の identity として大きな要素になる。
このフェーズは長く、一生ここに留まる人は多い気がする。というか、一般的に言われる fashion という語はこのフェーズを対象にしているような気もする。「個性」や「ブランド」、「流行」というのも、その単語が多用される背景は主にこのフェーズだろう。

僕の場合
phase1の終わりにも記したが、僕もこの流れを踏襲した。というか、この流れは僕が感じた、僕を含めた周りの人たちの一般的傾向だ。もちろん全然違う流れの人もいるし、fashion に関する考え方は人それぞれだが。
それでも某SNSのコミュニティにはそこそこのお金で無難なお洒落さを求めるというような主旨のものがあったり、fashion 雑誌を買う人が多かったりという種々の現象は、概ね上述の流れが minority ではないことを意味していると思う。
phase1で完全に内発的に興味を持ったというタイプの人は、なんだかちょうどいい言葉が浮かばないが、一目置きたくなる存在だ。

変化
いくらか前まで、僕の fashion に対するスタンスはおそらく「fashion が好きで、好きなものを着る、その結果お洒落と思われたらいいな」という感じだっただろう。雑誌を見るのもショップをめぐるのも楽しいし、お金もつぎ込んだ。しかし、無意識的などこかで「他人の視点」に支配されている感はあったし、結果的には「見せる」 fashion になっていた用な気がする。完全に自分のための fashion という要素ももちろんあるのだが、その割合というのが、結局は「他人視点」の方が大きかったように思える。

ところが、最近気づけば fashion観が少し変わってしまった。

上述したが、人と fashion を結ぶときにその結び方は2種類ある。すなわち自分と fashion がストレートに結びついている場合と、一度他人を経由して結ばれる場合とだ。僕が今回の entry で述べた一般の場合は後者のケースが多い。しかし、僕の場合どうやら後者から前者へとシーソーが傾きつつあるようだ。
前者への移行の際にポイントとなるものの一つが例えば服の「機能」だと思う。最近は real clothes なんて言葉も良く使われているが、機能面が少しずつ重要視されている傾向はあると思う。機能というのは目的と効果が明確で、 fashion と自分がダイレクトに結びつく。

しかし、僕の fashion観を傾けているのはこの機能面ではない。
title にある“my other eyes”だ。
my other eyes って何だ?英語的にもしくは人間的におかしいだろ、というのはもっともなのだが、僕はもう一組の目で自分とその周りの空間を見ることがある。自分に帰属する、でも客観的な視点をもつもう一組の目に見られ、見ているのだ。それが自分の fashion に対する考えに結びつく。
今思えばこれが言語化できないもやもやの正体だった。例えば、ある特定の場面で外から自分を見たとき、こういう fashion ならいいなぁと思うことがある。景色と自分がセットになった写真を見て、この服は景色と合ってなかったなと思うことがあるが、その感覚がリアルタイムで起きている。服を着替えることは現実的ではないし、なかなか無茶なことなのだが、場面場面にはそれぞれに合った fashion 、もしくは自分が合うと思う fashion があるわけで、それを判断するのが外から自分を見るもう一組の目なのだ。他人の目ではない。あくまでも自分がその空間、場面と一体になるとき、視覚的にどのように一体になりたいかというのを基準として身にまといたい fashion が決まるのだ。このような自分と fashion との関係の間には他人は介在しない。完全に自己満足、自分が見たい対象として自分の fashion があるのだ。鏡がなければリアルタイムで自分と周囲の調和を見ることなど原理的にはできないが、その役割を持っているのが“my other eyes”なのだ。
こうして僕は、他人視点の「お洒落」を意識することをしなくなったわけではないのだが、他人から完全に解放された自己満足の真に自由な fashion を楽しむようになってきた。

結局上手く言葉で説明できなかったのだが、この何でもないような差、すなわち外から自分を見るのでも、「他人の目」でかそれとも“my other eyes”でかという差が大きな解放をもたらしている。人間の世界であれば、一つひとつの感覚でさえも完全に他者に依存しないというのが一つの大きな自由なのだろう。
そういう意味では自由であることと幸せであることとが単純な一致を見せないのがなんとも難しい。

Friday, December 07, 2007

A Dancing Doll

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久しぶりに見た有機化学。
それがこれ。1年以上前に見つけて PC にストックしておいた名作で、機会があり再び見ることに。 chemistry をやる人に。一足早い X'mas present です。

出発物質はそれなりに安定性はあるような雰囲気で、たぶん用意できる。
ここから素敵な present をつくっていきましょう。
上半身と下半身の素をつなげる反応は至って簡単な反応で問題はない。ただし、脇腹から水酸基が飛び出しているのでとってやらなければならない。こんなのいくらでも簡単にとれそうだが、上の過程では CS2 を使っているのでたぶんこれが一番いいんだろう。ちなみにこの scheme 自体どこで入手したのか自分でも忘れてしまって出典を書けませんが、 yield まで記入してあって、誰かが実際に合成した模様です。大きな敬意を表します。その敬意で、出典記載の代わりにさせていただきたいと思います。
最後にボンボンのついた帽子をかぶせてやってお人形の出来上がり。この反応は良く知らなかったのだけれども、どうも短時間で良く進むようです。

楽しそうに踊っています。
organic chemistry をやっている方、是非どうぞ。


Thursday, December 06, 2007

南の島の Dog race

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Guam の旅でふと考えたこと。

Guam には政府公認のギャンブルとして「競犬」がある。
月・水・聖金曜日を除いて毎晩開催されているもので、せっかくなのでレースの行われる GUAM GREYHOUND PARK に足を運んでみた。

日本の競馬と賭け方の仕組みは酷似していて、基本的な賭け方は以下のとおり(他に BOX 買いの方法がある)。
・WIN:競馬で言う「単勝」
・PLACE:1頭だけ選び、その犬が1~3着のいずれかに入ればよい
・QUINIELA:競馬で言う「馬連」
・TRIFECTA:競馬で言う「3連単」
・SUPERFECTA:言わば「6連単」…1日に1レースのみ

最小賭け金は1通りにつき $3 からで、SUPERFECTA のみ1通りにつき $2 から賭けられる。
現在時点では基本的にどうやら通常レースは7頭立て。
特別レースの SUPERFECTA 対象レースのみ9頭立てだ。
日本の競馬と同じくパリミュチュアル方式がとられ、オッズは純粋に投票の結果で決まる。すなわち、賭け金の総額から手数料を差し引いた残りが投票の結果をもとに配分されるようオッズが決定する。
良く言えば、そのフランス語の意味どおり「賭け事はお互いに、うちわ同士で」ということになるが、別の見方をすれば胴元が確実に収益を得ることができる仕組みだ。

ところでそのオッズは各犬の勝つ確率を正確に反映しているかといえば NO だ。
基本的にはオッズの低い犬は人気があり、人気が高いということは勝つ可能性が高いとプレイヤー(賭ける人)たちから評価を受けていることに等しい。したがって一番人気の犬のオッズは当然一番低い。がしかし、良く考えてみると犬の勝算を考える上でこのオッズには何ら信憑性はない。なぜなら個々のプレイヤーたちの考えが正しいとは限らないし、プレイヤーの数が少なければ特に、あるプレイヤーの非論理的投票によるゆらぎを吸収する力が投票マーケットからなくなる。これは経済学における完全競争云々の話と同じだ。投票者が犬に対しての十分な情報を持っており、かつ多数存在するとき、その投票によってつくり出されるオッズは各犬の勝つ確率を正確に表すものとなる。Guam のドッグレースがこの「完全」オッズとは程遠いということは見ていて明白だった。まず、犬に対する情報が完全に不足している。プレイヤーたちが持っているのは入り口で配られた適当な予想シートのみ。さらに、勝犬投票券を買っているのは旅行者ばかり。これではプレイヤー各人の予想の集合体はまったくあてにならない。もう一つの要因としてプレイヤーの人数の少なさも明らかだった。ドッグレースはイギリスやマカオなどでも行われているようだが、人口も少ない Guam のレース規模は非常に小さい。

だからこそ、一部のプレイヤーにとってはこのギャンブルは非常に勝てる可能性の高いものとなるだろう。上述のように、プレイヤーたちの主観的確率の結果として表れたオッズは、完全に犬に由来した客観的確率によるオッズとは異なる。したがって、その主観的確率と客観的確率の乖離がチャンスとなるのだ。
理論経済学における合理的期待形成仮説は実際の市場には当てはまることはなく、金融市場のプレイヤーたちはこの乖離を探して利益を出している。ファンドマネージャーの苦労はこの乖離やゆらぎというのがプレイヤーの増加によって減少していることにもよっている。
そういう意味で日本の競馬は非常にプレイヤー不利のギャンブルだろう。 Guam のドッグレースとは規模が違い、投票はネットでもできる。おまけに競馬新聞は比較的細かな情報も提供している。

旅行で訪れただけなので細かな分析はしなかったものの、日本の競馬に比べれば圧倒的に専門的プレイヤーが勝てる状況だった。下手をすればドッグレースで食っていく人が現れてもおかしくないだろうという感想ももった。専門的プレーヤーは精度の高い情報を保持できるよう常に努め、主観的確率と客観的確率との乖離が大きい(=チャンスが大きい)レースに絞って賭けていくのだ。客観的確率の下ではおいしい組み合わせが不当に高いオッズとなっているということは頻繁に起こるだろう。


そんなチャンス満載のドッグレースだが、ギャンブラーたちにとってもう一つ大きな楽しみがある。それが SUPERFECTA で、9頭立てのレースで1~6位まで全て当てるという大博打だ。単純に賭け方の総数は 9P6=60480 通りある。1通りにつき最低 $2 だから、全通り買うとなると、$120960 もかかってしまう。その対価はというと、最低賞金こそ $2000 だが、当たりが出なかった際の賭け金はキャリーオーバーされていく。ちなみに僕が行った日はキャリーオーバー額が $6300 ほどだった。
普通に考えれば圧倒的に不利なギャンブル。しかし、キャリーオーバーの額が $10000 や $20000ともなることもあり、そういうときだけ狙ってみるというのもアリだ。というのも、旅行のガイドブックによると、上述の予想シートの本命は約50%の確率で勝つらしい。したがって、この50%に賭けてその上で、例えばどうしようもない1匹を外すことができれば残り7頭から2~6位に入る5頭を選べばよいので、 7P5×$2=$5040 で買い切ることができる。$5000 を投入してもし50%近い確率で$20000 を得ることができるのなら、みんな飛びつくだろう。

とはいえ、もう一つ難題がある。
それだけキャリーオーバーが発生しているとすれば、このような試みに出るものが他にもいるだろう。もし複数人当たってしまった場合、蓄積額は山分けということになるのだろうから、当たっても元が取れなくなることも十分ありうる。まさにゲーム理論に見られるジレンマなわけです。一人で行けば十分勝算がある。がしかし、複数人が行けばみんなそろって負け。しかし行かなければチャンスを逃す…


世の中うまくはいかないものです。

長くなりましたが、
要は Guam のドッグレースは1回楽しんでみて下さいというところです(笑)
 

Tuesday, December 04, 2007

投資ファンド

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投資ファンドとは何か~知っておきたい仕組みと手法~ <北村 慶>

北村さんの本は金融やコンサルを中心に、あまり表には出てこないビジネスの解説をするものが多いが、本書もまさにそのパターンの一つ。内容は非常に平易だが、薄い1冊の割には効率よく知識をつけられるようになっている。北村さんの解説本のような書を多く読んでも読者は何をできるわけでもないが、社会で起こっている現象を理解することはできるようになる。そういう意味で、広く浅く、そして読みやすい解説書というのは様々な分野で求められるはずだ。
本書で扱う「投資ファンド」とは、不動産投資ファンド、ヘッジファンド、企業投資ファンドの3つで、それぞれに対して具体例を含んだ解説がなされた後、終章で「投資ファンドの未来について」という解説がある。専門用語は極力使わないようになっていて、使う場合でも図や表で説明が加えてあり分かりやすい。
日本ではファンドマネージャーといえば、ルール違反スレスレの方法で大金を短期間で手にするような人というイメージがなんとなく共有されているが、本書を読めば、飽和状態の市場で各ファンドがどれだけ苦労しているかも見えてくるだろう。業界で浮く企業があれば沈む企業もあるというのはファンドの世界においても当然のことだ。

ファンドは一言で言ってしまえばただの「お金を集めて投資する機関」かもしれないが、投資対象や手法は様々でその実態は掴みづらい。興味があればご一読を。