Monday, January 04, 2010

同窓会に思う

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今日は仕事始め。短い休みではあったが、正月という普段とはちょっと違った区切りの時でもあり、思ったことを書きとめておく。


2日に新年早々高校の同窓会があった。ちゃんとした会場でのちょっと大きな会だった。こういう規模では初めて。
一人ひとりを見ると当時とあまり変わらないようにも感じたが、一つの集団として見ると、その全体像はやはり変わったように思う。時計の針は見えないところで進んでいる。

高校の同窓生には、会社の同僚や大学時代の同期とは違う面白さがある。これは多分「多様性」に由来している。得意不得意が違って、人生の背景も違う人間が集まっているところに面白みがあるし、新しいものが生まれる予感もある。その点では中学校や小学校の同窓生の方がもっと面白いのではとも思うのだが、これは不思議、ただ多様性があればいいというものではないらしい。僕にとっては高校時代ぐらいのバラつきが丁度いいみたいだ。もちろんこれは交友関係云々とは次元の違う話だ。

多様性はあるものの、ある種独特な集団のキャラクターを感じることはできた。多様な人間をバインドしているものかもしれない。「ほのぼの感」だった。こうして超主観的に言うのもなんだが、僕の高校はいいやつが多い。そして僕はそんな母校が好きだ。僕自身もほのぼのとした人間なのかもしれないし、それが居心地の良さの源泉なのかもしれない。

一つの集団としての全体像が変わったように思えるのは、パッションが隠れたもしくは薄れたからだと考えている。高校時代は一人ひとりからパッションが漲っていたように思う。夢に満ち溢れていたようにも思う。この感覚を極端に言えば、渋谷や原宿の街を歩いているときに感じるものと大手町のビル群を歩いているときに感じるものとの差だ。大手町のビル群には四方八方飛び出すようなエネルギーを感じない。一方で渋谷や原宿の若者にはエネルギーがあるし、いろいろな人と夢がうごめいている。この感覚には、社会性や現実性の程度の議論では片付けてはならない本質が隠れていると思う。多くの人は、年をとると人生の舵の可動区域が狭くなっていく。それに伴いパッションは逓減し、エネルギー値が下がっていく。高校の同窓生の「ほのぼの感」、僕の好きなそれが昔より浮き立って見えたことであらためて気づかされた。

しかし僕はこれに抗いたいと思っている。エネルギー値を下げたくない。むしろ上げていきたいぐらい。人間が年を重ねていく上での摂理なのかもしれないが、この言わば"Time Dacay"に抗う方法はあるはず。意志と習慣と機会の積み重ねとによって(もちろんそれ以外の要素も)夢もパッションもより強く大きなものになりうるのではないか。機会は一人ではなく人と人とが創り出す。多様性を持った仲間が相互に影響し合って各々の夢を大きくできればいいなと思う。高校時代の友人にはそういう観点である意味期待しているし、僕も機会を創り出す人間であろうと思う。
高校の友人だけでなく、会う人の多くにおいて同じであることは言うまでもない。まずは自分からだが、集団の中の一個体としてのニンゲンに成り下がらないよう熱を持って舵取りをしていこうと思う。

最後に、忙しい中いい同窓会を企画してくれた幹事団には感謝。
 

2 comments:

米本 said...

高校ぐらいのばらつき感,いい.
どの集団でもある種のばらつきやら共通点があるけど,浦高は良いね.
俺も行きたかった...

年末飲みは楽しかった!
今年もヨロシク.


米本

Leolio said...

いや来るべきだったでしょ、絶対。

大晦日飲みもだいぶ回を重ねて定着感あるけど、ずっと続けていこう!