Saturday, April 05, 2008

ショパンのバラード

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最近、高校のときに弾いていたショパンのバラード第1番を再び真面目に練習したいという気になりつつある。今日も久しぶりにピアノを弾いたのだが、無意識に最初に手にとった楽譜はバラ1だった。
何百回と弾いたであろう、そして聴いたであろう旋律は頭に完全に残っている。指の感覚も不思議と残っているもので、ミスタッチだらけながらも何となく弾くことはできる。ただ、練習時間もなくなり指が自由に動かなくなった今では自分の表現したいバラードと実際に奏でられる音とのギャップが大きく、少し気が滅入る。と同時に、自分の音が良く聴こえなくなるという現象が起きる。すなわち、CD録音の際の修正ではないけれども、耳の中に入ってきた自分の音を脳内で自分が弾きたいイメージの音に修正してしまうということが無意識的に起こる。自分一人で弾いている分には気持ちがいいのだが、聴き手がいると想像するとき、しっかりと自分の音を聴いて練習しなおさなければいけないなと痛感する。

ところで、ショパンが残した4つのバラードのうち、僕はこの第1番と第4番が圧倒的に好きだ。バラードの中でというだけでなく、ショパンの数多くの名作のうち好きなものを10曲選べと言われてもこの2曲は絶対に入る。第4番についてはまたいつか書こうと思うが、今日は上述のとおり、これから腰を入れて練習しなおそうとしている第1番について書くことにする。
ショパンのバラードはポーランドの詩人 Adam Mickewitz の詩に霊感を受けて作曲されたものとされているが、具体的にどんな内容が背景にあるかというのは完全には分かっていない。しかし、僕はショパンがこの曲を作るときに背景にしたものを必ずしも共有する必要はないと思っている。演奏家は往々にして作曲家がどういう背景の下で曲を作ったのかを深く理解し、それを演奏に反映させるということをするのだが、僕はとりわけこのショパンのバラードに関しては演奏者が個々の感ずる物語を曲に当てはめ、そのイメージで自由に演奏をするのがおもしろいと考えている。

"Ballade" は、「物語」を意味するフランス語が起源となっているようで、一般には物語詩、譚詩を指す。だが、もしバラード第1番に "Ballade" という題目がついていなくとも、僕はこの曲を聴いたときに「物語風」な何かを感じるだろう。それほど一つの曲がめまぐるしく何かを表現しきっている。
バラード第1番を聴いて何を感じるかは人それぞれなのだが、僕はこの曲に一人の人間の人生という少し抽象的な物語を感じている。50歳で死ぬ一人の人間が死ぬ直前に人生を振り返る、そんなイメージ。

死に対峙している人間が立つもの悲しい背景の描写から人生の回想が始まる。その人は希望に満ち溢れ、最も充実していた一時の日々を思い出し、そんな情景が次第に失われていく過程を回想する。回想の夢から覚めたとき、夢の終わりとともにその人の人生も幕を閉じ、物語は終わる。

これが僕がバラード第1番から感じる物語のアウトライン。物語とはそもそもフィクションのようなものでない限り、回想のような形式で語られるものだと思うが、僕のこのイメージの1番のポイントは人間が死ぬときに自分の人生を振り返っているというところにある。この曲の中間部の希望に満ち溢れた部分を弾いているとき、なぜだが涙が出そうな感覚になる。僕がイメージしている死を間近に控えた人間に感情移入してしまうのだ。旋律と構成が好きでこの曲を何度も弾いているうちに、僕は死ぬ直前に人生を振り返るということを擬似的に経験してしまったように感じる。親しい友人にはこんな視点を語ったこともあるのだが、この非科学的な感覚は現実の自分の人生にも少なからず影響を及ぼしている。
音楽的に好きというだけでなく、この曲は僕の人生観を語る上でキーとなる体験を提供してくれた大切な曲なのだ。

「聴く」方では、ルービンシュタインとアシュケナージをよく聴いている。というかほとんどそればっかり。
ちなみに、以下の2枚を聴いている。もう一つ大好きなスケルツォの方もこの2枚を聴いて育った。

    
 

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