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今日は参ってしまった。
天気予報ではおそらく雨は降らないだろうということだったのに、夜遅くになって降り出してちょうど帰るときに雨にあたってしまった。3月とはいえ、夜の雨はかなり冷たい。
こんなときはビニール傘の1本が非常にありがたいんだけれども、普段はどうにも傘を持って出かけるのはテンションが上がらない。外へ出るといったら電車移動が基本な僕は、傘をさしている時間、傘立てに立てている時間に対して、使わずに手に持っている時間というのがけっこうある。電車の中での時間というのはけっこう貴重なリソースでもあるので、本を読んだり、死ぬほど疲れているときは寝たりしたいのだが、そんなときに傘があるとけっこう不便だったりする。電車内のシートの端の席は傘がかけられるという理由で、雨の日は晴れの日の3倍ぐらいの人気を呈していると、僕は睨んでいる。
そんな傘だが、以前から欲しいというか注目している傘がある。
“Stand Umbrella” design: 坪井浩尚
この傘、その名のとおり自立する傘。傘の先の部分が3つに割れていて、バランスがとれるようになっている。先の部分がちょっと邪魔かもしれないけれど、これはかなりクリティカルな idea だと思う。
傘が誰にも迷惑をかけずに自分で立っていてくれる。ありがたいことではないですか。
バランスを見ると、どうもギリギリ立つぐらいにしか見えない。電車は加速度運動をするので慣性力が生じるし、大きな揺れもあるだろうからあまり実用性がないように感じるかもしれないが、そういうときは、3本の足を人間の足でそっと押さえてやればいい。モーメントというやつを考えたときこの効果ははかりしれない。
いい傘です。
傘を紹介することになったので、ついでにもう1本、ちょっと機能が付加された傘を。
“±0” の Umbrella design:深澤直人

±0 はお馴染みかもしれないけれど、持ち手のところに小さなくぼみが。
傘を閉じてもっているとき、ちょっとした袋なんかをここにかけられるようになっている。
傘をもってるときってとにかく手の片方はうまってしまっているわけで、こういう全然大したことないのかもしれないけど一工夫がありがたい。ちなみに負荷は5kgまでいけるらしい。
モノが良くなると、人間は弱体化?してしまうのかもしれないけど、やっぱりこういうモノが世の中に出てくるっていうのは嬉しいものです。
Friday, March 07, 2008
傘に機能をプラスする
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Wednesday, March 05, 2008
“地球”を感じたその景色
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前回はラスベガスのカジノでの所感を記したのだが、旅の目的はどちらかというとラスベガス周辺にあるいくつかの国立公園に訪れることの方だった。旅自体はプライベートなところでもあるが、せっかくなのでこの目で見てきた雄大な自然についてもここに書いておくことにする。
<File#1> Grand Canyon National Park
言わずと知れた「地球の名所」。僕は子供の頃からここを自分の目で見るのが夢だった。
ラスベガスから車で5時間ほどで、サウスリムと呼ばれるエリアに到達する。写真はそこからの眺め。
この風景が自然に作られたということを考えるとき、人間の存在の小さいことをまざまざと思い知らされる。小さいというのは4次元的な小ささだ。縦横高さ、当然大きさのスケールは比べ物にならない。ただ僕がもっと比べ物にならないと思うのは時間軸の話。ここにある土や岩は地球の歴史を知っている。
地球の歴史をともに経験していない僕たち人間は地球のことを本当の意味できっと理解しえない。がんばって理解できるのは人類の生活空間としての星、そんなところだろう。
4次元の圧倒的スケールの前に立ち尽くす他なかった。この歳、この瞬間に地球の歴史の1ページを見ることができて本当に良かった。
<File#2> Zion National Park
古代ヘブライ語で聖域を意味する“Zion”
神の棲む山として何とも畏怖の念を感じずにはいられない佇まいだった。
訪れた日はもともと天候があまりよくなかったのだが、車で近づく僕たちを簡単には受け入れないかのように雲をはり、視界を悪化させ、光を遮った。
表情豊かな巨大岩の数々はそれがどのように形成されたのかまったく想像ができないほど芸術的な切り取られ方をしていて、自然に侵食されてできたと考えるよりは神の存在を感じずにはいられなかった。
グランドキャニオンではその圧倒的なスケールの前に息を飲んだが、ここではその神秘的な風景に魅了された。僕にとって地球上で最も大事な風景の一つになるであろうことが直感的に分かった。
四季の表情の変化が有名なこのザイオンに再び訪れてみたいと思ったのは言うまでもない。
<File#3> Death Valley National Park
シエラネバダ山脈東部に位置するこの国立公園は全米の国立公園中最大の面積で、とにかく広い。
その名のとおり、この場所は過酷な環境だ。公園内には海抜高度3368mのところもあれば、一方で海抜高度がマイナス86m(西半球最低)のところもある。
砂漠が広がる中に部分的に水がある風景は何とも不思議だが、この水は塩化ナトリウム濃度が以上に高い。デスバレーの低地全体に広がる白い色も「塩」だ。ここは昔海水に浸っていた場所で、今こうした風景が広がった経緯は複雑を極める。ここでもまた4次元スケールの大きさを目の当たりにする。
これは個人的な感想なのだが、一見無味乾燥地帯のデスバレーからは不思議なエネルギーを感じた。デスバレーと言われるぐらい地上の何もかものエネルギー源が吸い取られたこの土地から逆に何か地球の生命のエネルギーのようなものを感じたのだ。
1日しか滞在しなかったので、とてもその広大な場所を理解するには至らなかったが、地球上にこんな場所があるということだけは五感をフルに使って感じることができて良かった。
▼対比
ラスベガスというのはおかしな町だ。こんな大自然に囲まれて、しかも砂漠の中にポツリとある。
国立公園から夜にラスベガスへと帰る際には毎回必ず真っ暗な闇の中に、局所的に集められた光の点を見た。
地球を体全体で感じてからそのような光を見ると何だか滑稽に感じずにはいられない。雄大で、人間のもつ技術とかそういう小さなものを遥かに超えた地球の一部分と人工的なネオンの光の集合体との対比はとてつもない不協和音を鳴らしているような気がする。町に帰ってラスベガスの綺麗な夜景を見ると人類の営みとは一体何なのかということを考えさせられた。
STRATO SPHERE TOWER からの夜景
写真は他にも少しですが、Flickr に up してあります。よろしければ Blog の右サイドバー内のリンクからご覧ください。まったくどの国立公園もカメラが無能に感じてしまうぐらい写真には納まらないスケールでしたが…
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Saturday, March 01, 2008
ギャンブル小話
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カジノが合法で、代名詞とも言える街ラスベガスに行ってきた。
そこで考えたことを記録しておこうと思う。
ギャンブルをするときに目的を明確にしている人は多いでしょうか?
ギャンブルの目的なんて単純で、お金を増やすことかゲーム自体を楽しむことぐらいだから、誰だってある意味目的もってやっているともいえるかもしれない。しかし目的を明確にするとなると話は別で、これができている人は思いのほか少ないのではないかと思う。
勝つことを目的にするならば、楽しさを追ってはならない。楽しむためにギャンブルをやるならスケアードマネーには決して手をつけてはならない。そして負けは遊戯料だと思って潔く認め、後悔はしないことだ。
ここをきっぱりできない人はあまりギャンブルに向いているとはいえないだろう。
今回はラスベガスのような大型カジノ都市を舞台にして、勝つことを目的とする場合のスタンスを考えたい。
まず、「勝つ」という概念を定義しなければならないが、ジャックポットを当てたときのような大勝は狙ってできるものではないし、本当に運のみの話になると思うので、ここでは元金を一定期間のプレイの後にプラスにするということを「勝ち」とし、これを目標にする場合を考える。
ちゃんとしたギャンブルには必勝法は存在しないのだが、勝つ可能性を上げるにはどうすればよいかを考える。各ゲームに対して、ペイバック率をコンマ数パーセントでも上げるような戦略論はいたるところで議論されているが、多くの人にもっと大事なのは精神的な要素やゲームに入る前のスタンスだろう。だから超上級の戦略や確率といったものは他の研究者にまかせて、僕はその点について書く。
最初に、勝つことを目的としてカジノでギャンブルをやる際のスタンスとして重要なことをまとめて3つあげる。
①率が良くて得意なゲームはやる。率が悪くてあまり知らないゲームはやらない
②勝ち逃げは当然
③感情を断ち切る
順に見ていく。
①率が良くて得意なゲームはやる。率が悪くてあまり知らないゲームはやらない
カジノというのは開く側にとってはビジネス。儲からなくてはビジネスにはならない。ただ、トータルで儲けられれば中身のバランスはそれほど重要でない。これが基本だ。
カジノにはスロットマシンやビデオポーカーのように機械を相手にするタイプのゲーム、クジのようなゲーム、そしてテーブルゲームと、様々な種類があるが、緻密な確率計算のもと、それぞれペイバック率というのが決まっている。スロットマシンのペイバック率は最悪、クラップスやBJ、一部のビデオポーカーはかなりいいというのは常識だろう。ビデオポーカーにいたってはペイバック率が100%を超える台すら存在する。ところがカジノの経営上、こういう台を置くことはさしたる問題ではない。他のペイバック率の悪いゲームでいくらでも客からお金を抜くことができるからだ。
したがって、「勝ち」を目標にした場合、ペイバック率の悪いゲームをやっていてはまず話にならない。スロットマシンは手軽で楽しいし、ジャックポットの可能性もある。しかしスロットマシンをやることは、すでに目的達成への道から外れている。もちろんカジノを楽しみたい人はいろいろなゲームにチャレンジして自由な時間を楽しむべきだ。
②勝ち逃げは当然
勝ち逃げというのは何だか気が引けるものだ。大きく勝った瞬間にそのテーブルを立ったり、はたまた小さなプラスでやめて小額の勝ちを確定するというのはどうもケチくさいのではないかという思いに駆られる。しかし、「勝つ」ためにはこの勝ち逃げのスタンスは基本となる。
ゲームを熟知し、基本戦略に従ってプレイをすればペイバック率はかなり高くなり、ゲームの種類にもよるが、97%や98%といったほとんど五分の勝負になる。このペイバック率というのは確率計算上の話なので当然有限試行ではムラが出る。したがって始めのうちは元金に対して浮くときもあれば沈むときもあり、試行の回数をずっと増やしていけばジリジリと負けていき、最後はペイバック率に収束する。この浮いたときにやめられるかが一つのポイントであり、プレーヤー側の権限として最も強力なものだ。ディーラーや運営側は自分の判断でやめることができないが、客はいつプレイを終了してもいいのだ。プレーヤー最大の利点を安易に放棄してはならない。勝った瞬間にやめよう。そして浮いた瞬間に席を立とう。それが確率的な不利さを超えるための一つの重要なスタンスだ。
例えばルーレットのケースを考えたい。0、00、1~36の計38個の目に対し1点で賭けて当たったときの収益は36単位。普通に考えれば、ペイバック率は 36/38 で95%以下。とても勝てるゲームとは言いがたい。しかし、プレーヤーの強みはいつでも試行をやめることができる点。毎回1点で賭け続け、例えば25回目に当たってそこでやめてしまえば収支は大きくプラス。こういう有利さを意識してゲームを選び、プレイすべきだ。
「勝つ」ことを目標にするのなら、プラスはこつこつとでいい。大きなプラスを求めるとそこにはかならず大きなマイナスの可能性が潜んでいる。
③感情を断ち切る
機械のように基本戦略に従ってこつこつとプレイするのは正直楽しくない場合が多い。たまには、何か自分の予感を信じて illogical な張り方をしたくなる。しかし、こういう気分転換的な数回のプレイがそれまでの着実な結果を台無しにしてしまう。それをしているうちはまだ本当に冷徹に「勝ち」を目標にできているとはいえない。
今回のラスベガス旅行では僕は楽しむことを目的にカジノにいたので、illogical なことはいろいろやった。ペイバック率の低いゲームをやったり、確率的には不利な賭け方をしたりといった具合にだ。その中で最も損失が大きかったのは、ルーレットの赤黒で大きく張ったときと、BJでマーチンゲール戦法を試したときだった。
まず、ルーレットの話。ある時点までは基本的な出目の傾向などを押さえて、確率の高いところに広く賭けてそれなりにこつこつと収益をあげていたのだが、ふと気がつくと赤が連続して8回も出ていた。もともと赤黒で賭けて盛り上がっているプレーヤーもいたが、さすがにヒートアップしてきてテーブル全体が赤黒だけのゲームかのような異様な空気を持ち始めた。このとき僕も何かの予感がしてそろそろ黒がくるだろという思いに駆られてそこから赤黒賭けに参加してしまったのだ。この後黒には各プレーヤーから多大なチップが投入されたが、結局赤が11連続で出るという結果で終わった。僕も黒に突っ込みすぎて、すっかりスッカラカンになってしまった。こんなときに口からでるのはたいてい、「まさか11回も連続で赤がでるとは」だとか「18/38の11乗だよ、ありえない」という言葉だろう。しかし、これは大いに間違っていて、反省しなければならない言葉だ。あらかじめ決められた11回の試行で全て赤が出るというのは上述の確率のとおりで、非常にめずらしい。しかし、自分の目の前で起こった11連続赤という事象は実際にはもっと大したことがないものなのだ。そのルーレット台の長い歴史を考えれば11連続で赤がでることぐらい大したことではないのだ。
例えばそのルーレットが1時間に30回のペースでまわり、24時間、365日、20年間稼動しているとすると、今日までに500万回以上の試行が行われていることになる。その500万回のどこかで赤が11回連続になっている確率なんて相当大きい。めずらしくもなんともないのだ。
1回1回の試行が独立であることを忘れ、自分勝手な間違った解釈で次はそろそろ黒だ!なんて考えると一気に負けてしまう。感情的にならず冷静でいなければならない。
同様に、マーチンゲール戦法も危険極まりない戦法。いわゆる倍プッシュで、1回でも勝てばそれまでの負けを取り戻し、1単位だけプラスになるというこの戦法は、予想を超えて連敗して手持ちに底が見えたときに破綻する。この戦法をとりたくなってしまうのは、五分の勝負で7回も8回も連敗しないだろうというような勝手な確率計算が原因だ。確かに特定の8回の試行で五分の勝負を8連敗する確率は 1/256 だが、数多くの試行をするなかで、たまたま8回連続で負ける箇所ができる確率は格段に高くなる。
「勝つ」ことを目的にした場合、一時の感情や正しくない確率計算をベースに賭けることは確実に失敗をまねく。まともなカジノに簡単な抜け道はなく、プラスにしたいのなら正しい確率のみを信じ、感情に流されることなく冷徹に試行を繰り返すしかないのだ。
上の①②③をしっかり意識してプレイするなら、「勝って帰れる」確率は高まるだろう。
以上、書き殴りですが。。
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Friday, February 29, 2008
コンコルド効果
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ラスベガスへ旅行に行っていたこと、そして旅の途中でインフルエンザにかかり、帰国後も病床についていたことで日本の流れからすっかり取り残されてしまった。
日本を出るときに世間を騒がせていたのが、HD DVD とブルーレイの決着の話。そして帰国後、ワイドショーで話題に上がっていたのが新銀行東京のひどい話。この2つに共通するトピックの一つは「撤退」で、今日はこれについて少し考えたい。
ソフトをほぼ完全に押さえられた形になって東芝は次世代DVDの規格戦争から撤退を表明した。この損切りに対しては様々な意見があるが、負け試合をダラダラ長期化させすぎたという意見よりは、比較的早い決断で立派なものだったという意見の方が多いような気がする。新銀行東京の方はこの先石原都知事がどうするのかはわからないが、税金をさらにつぎ込むより今のうちに勇気ある撤退をという声がかなりあがっている。ある程度事業の見通しが悪くなると「撤退」というオプションは外側からかなりプッシュされてくるものなのだろうが、これを決めることやそのタイミング決めというのは難しい。
「撤退」を決めることが難しいのは何もビジネスの場だけではなく、人間の性質上どんなシーンでも難しい。
僕は高校1年のときに、長谷川眞理子著『科学の目、科学のこころ』の中で強烈な言葉を覚えた。思わず「あるある」と言ってしまう現象。それが、コンコルドの誤り(“Concorde fallacy”)もしくはコンコルド効果(“Concorde effect”)だ。有名な超音速旅客機コンコルドは、開発途中の段階で、完成しても採算はとれないということが分かっていたにもかかわらずに開発を続行し、その結果飛べば飛ぶほど赤字が膨らむという案の定な結末で幕を閉じた。このコンコルドの商業的大失敗をもとに、「ある対象への金銭的・精神的・時間的投資をしつづけることが損失につながるとわかっているにもかかわらず、それまでの投資を惜しみ、投資をやめられない状態」をコンコルド効果と呼ぶのだ。
「せっかくここまでやったのだから」という気持ちは生じやすい。時間的投資に関して言えば、日常生活においてもこの状態にはよく遭遇する。コンコルドの誤りを脱出できれば当然損失は最小限に抑えることができるし、それ以上無駄な時間を費やさなくてよい分、時間というリソースの損失も防げる。一方で、コンコルドの誤り状態に陥っていることを認めるということは、完全に「負け」を確定するという精神的タフネスが要求されるとともに、もしかしたらの可能性を放棄することになるため、なかなか簡単にはできない。とくにもしかしたらの可能性というのは決断を遅らせる大きな要因かもしれない。今までやってきたことを正当化するために簡単にすがれるのが「未来の可能性」というやっかいな幻想だ。未来の状況は誰にも分からないといえば分からないのだが、だからといって全ての決断を先送りにできるほど世の中は甘くない。
人間が陥りやすいコンコルド効果にやられないために、意思決定者には撤退しやすい環境と、未来ではなく現在の指標に基づいた撤退判断基準が必要だろう。
「やめたい」、「あきらめたい」という気持ちを振り切って頑張ることは大変だが、過去の投資に目をつむって、さらに「やりたい」、「続けたい」という気持ちを押さえてものごとをやめるというのもなかなかエネルギーがいる。
この話をふまえながら、近々ギャンブルの話を書こうかと思う。せっかくラスベガスにも行ったので。
科学の目、科学のこころ <長谷川 真理子>
とくにどうということもない駄文になってしまったが、突っ込むことが大事なときは突っ込む、やめなければいけないときは自分にストップをかけるというように、自分の感情をうまくコントロールしたいものだ。
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Sunday, February 17, 2008
中村紘子 ピアノ・リサイタル
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中村紘子のソロコンサートに行ってきた。 2/16 @サントリーホール
<Program>
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 Op.27-2「月光」
ショパン:4つの即興曲
シューマン:クライスレリアーナ Op.16
アルベニス:「スペイン」 Op.165より 第2曲“タンゴ”
シチェドリン:アルベニス風に
~Encore~
グラナドス:アンダルーサ
マクダウェル:魔女の踊り
ショパン:ノクターン第20番 嬰ハ短調
チャイコフスキー:『四季』op.37bから「11月」
ブラームス:ハンガリー舞曲第1番 ト短調
ショパン:スケルツォ第2番 変ロ短調 op.31
中村紘子は日本のピアニストの中では一番というぐらい有名で、ピアニストとしてのキャリアも来年で50年という大ベテラン。そんな中村紘子を僕が最初に知ったのは映像でも音声でもなく、意外にも「紙」の中でだった。中村紘子が講師をしていたNHKの番組「ピアノとともに」のテキストが家にあり、小さい頃からその名前と写真には触れていた。僕の中では中村紘子というのはそのテキストの中の人で、有名なのだろうけど大学に入るぐらいまで特に演奏も聴くことがないままだった。その後はCDなどで演奏を聴く機会はあったが、どうしても長年見ていたテキストのイメージがほとんどを占めていた。
長年持っていたイメージが実はだいぶ現実とは違っていたという経験は多い。そういうときは何かしっくりこないし、ときにがっかりする。音のない漫画を何度も読んだ後に、その漫画のアニメ版を見ると、自分の想像していたキャラクターの声とアニメ内での声優の声にギャップを感じることがある。それと同じだ。
しかし、CD以外で初めて聴いた、そして観た中村紘子のパフォーマンスは僕の長年のイメージ、すなわち1冊のNHKテキストからのイメージとすごく合致した。なんだか前から知っていたかのようにすんなりと受け入れることができたのだ。曲目や各曲の演奏内容もさることながら、今回のコンサートで僕が一番良かったと思えたことはそれだった。実家に帰ったときはもう一度あのテキストを開いて、講師中村紘子が記した注意点を見ながら「月光」でも弾きたい。
曲目について。クライスレリアーナは期待通りすごくよかった。僕はクライスレリアーナに関してはポリーニの演奏を聴きすぎて、それに慣れてしまっているため非常に新鮮に感じた。ポリーニとは全然違った世界観があってよかった。特に、8曲あるうちスローな曲に味があってよかった。
驚いたのはアンコールの曲数で、拍手が止まらなかったとはいえ6曲もやってくれるとはすごいサービス。最後に僕のお気に入りのスケ2がきて大満足。アンコールだけに少し駆け足気味だったが。
アンコールのサービス精神も「ピアノとともに」からのイメージとフィットした。その講座は、リサイタル形式でテキストを構成してあったのだが、アンコール用の曲目がたくさん用意されていた気がする。テキストの構成、そしてアンコールまで意識してある辺りに、中村紘子のリサイタルへの姿勢をみていたのだが、このイメージも間違ってはいなかった。
なんだかいろいろな感覚が湧き起こった、いいリサイタルでした。
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Leolio
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