Saturday, December 08, 2007

see my own fashion with my other eyes

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深夜に眠くもなっていたのだが、先ほどの電話でふと fashion の話が出たのがきっかけで、自分が現在抱いている fashion観が何となく言語化できるような気がしたので、寝て忘れてしまわないうちにここに記しておこうと思う。

まず最初に、別に fashion というものの在り方を述べる気はまったくないし、何らかの意義を付与することが目的で書くわけではないことを注意されたし。ただ単に自分の fashion観をその変遷を追って現在に結びつけるのみだ。

phase1
購買能力に基づいた選択権をもつ、つまり真の意味において自分で fashion というものと対峙するようになったのは僕の場合中学生の頃だろうか。もちろん小学生の頃でも服や持ち物には興味がないわけではなく、identity の一部となっていたことは事実だが、ここでは購買能力をもったときを開始点としよう。
さて、自分の着るものを考えるようになり、お金を出して服を買おうと思ったのにはどのような理由があったのか?
そもそも fashion というものが、人間のみが感じるものだと勝手に定義することはそれほど乱暴ではないだろうから、ここではそうしよう。(熊と仲良くなるために熊の着ぐるみを着る人がいるかもしれないが、動物は広い意味での環境に含めてしまうことにする。)
fashion を考えたり、fashion それ自体の存在理由が結局は人のためということを思考の出発点としたわけだが、そうするとまず人というのを2種類に分けたくなる。
「自分」と「それ以外の人」だ。
それに対応して fashion に興味が起こる理由はストレートに自分のためである場合と、回りまわっては自分のためだが、間に「それ以外の人」が介在する場合とがある。一例として、前者は寒いから厚手の上着を着るという単純なケース、後者は他人に認められるために高い服を着るといったケースがあげられる。

ある種の年齢層が fashion に興味を持ち出す原因として、僕がパッと思いつくのは以下のようなものだ。
①比較的近くにいる同年代他者との比較によって
②タレントや年齢層的に上の世代など、あこがれの人との比較によって
③雑誌等にあおられて
④完全に内発的な興味によって

内観を基にすれば、④のケースは少ないのではないかと思う。④だと思っても、けっこう外部環境から影響を受けているものだ。僕も間違いなく①②③が原因だった。
①②③はどれも違うし、一見②なんかは他者を介さず、ストレートに自分と fashion がつながっているようにも感じるが、これらには決定的な共通点がある。基準が自分以外のところにあるという点だ。その点でどれも完全に④とは異なる。①や③にではカッコイイ/カワイイ、もしくはイケてる fashion という standard がつくられる。この standard と自分との間の差を埋めるために、他人の真似をし、雑誌を研究することになる。②も同様に、ある特定の対象によって基準がつくられる。この場合、自分の身近な環境では共通の standard はない場合も多いが、結局は他人基準に自分を近づけていくという営みになる。

こういう流れの中で、「お洒落」という概念は生まれる。
僕自身、中学生当時は Get on とか smart とかそういう雑誌を良く読んだのを思い出す。そしてそれが「お洒落」になっていった。
このフェーズでのポイントはとにかく基準が自分以外によってつくられる点だ。

phase2
外部基準による fashion の導入の次に重要になってくるのは多くの場合「他人の目」だろう。
スポーツができれば、ある対象からは認められる。テストの点数が良くても、これまたある対象からは認められる。同様にして、fashion も認められるためのものになっていく。他者基準の下で fashion がイケてれば、「お洒落」だと認められるし、異性にもモテるようになる場合が多い。これは自然というか majority な流れだとは思うのだが、こうなるといよいよ他人のための fashion になってくる。ここでは先ほどの「基準」の統一性・画一性が崩れ、独自性・個性といったものが重要視され始め、「お洒落」の定義は幅広くなっていく。fashion に対する興味は増大し、「お洒落」になりたいという欲求も増す。「お洒落」の基準はあまりなくなったので、自由度が増し、楽しくなる。fashion が好き!という内なる感情も強くなる。しかし多くの場合、自分がつくりあげた fashion を見るのは他人であり、結果的に他者を介した fashion となっている。

このフェーズでのポイントは他人に見られる fashion という点であり、自分の identity として大きな要素になる。
このフェーズは長く、一生ここに留まる人は多い気がする。というか、一般的に言われる fashion という語はこのフェーズを対象にしているような気もする。「個性」や「ブランド」、「流行」というのも、その単語が多用される背景は主にこのフェーズだろう。

僕の場合
phase1の終わりにも記したが、僕もこの流れを踏襲した。というか、この流れは僕が感じた、僕を含めた周りの人たちの一般的傾向だ。もちろん全然違う流れの人もいるし、fashion に関する考え方は人それぞれだが。
それでも某SNSのコミュニティにはそこそこのお金で無難なお洒落さを求めるというような主旨のものがあったり、fashion 雑誌を買う人が多かったりという種々の現象は、概ね上述の流れが minority ではないことを意味していると思う。
phase1で完全に内発的に興味を持ったというタイプの人は、なんだかちょうどいい言葉が浮かばないが、一目置きたくなる存在だ。

変化
いくらか前まで、僕の fashion に対するスタンスはおそらく「fashion が好きで、好きなものを着る、その結果お洒落と思われたらいいな」という感じだっただろう。雑誌を見るのもショップをめぐるのも楽しいし、お金もつぎ込んだ。しかし、無意識的などこかで「他人の視点」に支配されている感はあったし、結果的には「見せる」 fashion になっていた用な気がする。完全に自分のための fashion という要素ももちろんあるのだが、その割合というのが、結局は「他人視点」の方が大きかったように思える。

ところが、最近気づけば fashion観が少し変わってしまった。

上述したが、人と fashion を結ぶときにその結び方は2種類ある。すなわち自分と fashion がストレートに結びついている場合と、一度他人を経由して結ばれる場合とだ。僕が今回の entry で述べた一般の場合は後者のケースが多い。しかし、僕の場合どうやら後者から前者へとシーソーが傾きつつあるようだ。
前者への移行の際にポイントとなるものの一つが例えば服の「機能」だと思う。最近は real clothes なんて言葉も良く使われているが、機能面が少しずつ重要視されている傾向はあると思う。機能というのは目的と効果が明確で、 fashion と自分がダイレクトに結びつく。

しかし、僕の fashion観を傾けているのはこの機能面ではない。
title にある“my other eyes”だ。
my other eyes って何だ?英語的にもしくは人間的におかしいだろ、というのはもっともなのだが、僕はもう一組の目で自分とその周りの空間を見ることがある。自分に帰属する、でも客観的な視点をもつもう一組の目に見られ、見ているのだ。それが自分の fashion に対する考えに結びつく。
今思えばこれが言語化できないもやもやの正体だった。例えば、ある特定の場面で外から自分を見たとき、こういう fashion ならいいなぁと思うことがある。景色と自分がセットになった写真を見て、この服は景色と合ってなかったなと思うことがあるが、その感覚がリアルタイムで起きている。服を着替えることは現実的ではないし、なかなか無茶なことなのだが、場面場面にはそれぞれに合った fashion 、もしくは自分が合うと思う fashion があるわけで、それを判断するのが外から自分を見るもう一組の目なのだ。他人の目ではない。あくまでも自分がその空間、場面と一体になるとき、視覚的にどのように一体になりたいかというのを基準として身にまといたい fashion が決まるのだ。このような自分と fashion との関係の間には他人は介在しない。完全に自己満足、自分が見たい対象として自分の fashion があるのだ。鏡がなければリアルタイムで自分と周囲の調和を見ることなど原理的にはできないが、その役割を持っているのが“my other eyes”なのだ。
こうして僕は、他人視点の「お洒落」を意識することをしなくなったわけではないのだが、他人から完全に解放された自己満足の真に自由な fashion を楽しむようになってきた。

結局上手く言葉で説明できなかったのだが、この何でもないような差、すなわち外から自分を見るのでも、「他人の目」でかそれとも“my other eyes”でかという差が大きな解放をもたらしている。人間の世界であれば、一つひとつの感覚でさえも完全に他者に依存しないというのが一つの大きな自由なのだろう。
そういう意味では自由であることと幸せであることとが単純な一致を見せないのがなんとも難しい。

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