Monday, November 19, 2007

日本の初等・中等教育は資格学習化したか?

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前 entry のレビューに続いて、教育の話。
output を求めるアメリカの教育に比して、今の日本の初等・中等教育はどうか?

受験の末、大学に入った頃、僕はある種の「がっかり」感を覚えた。
世に技術を出したり新しい理論を考える立場である大学の理系学部なのに、こんなもんなのか?と感じたのだ。そしてその感覚は後になってもやはり気のせいではなく、現実のものだった。

僕の入った大学の入試問題の数学や理科は世間的に見ればけっこう難しい。
しかし、不思議なことに、これらの科目の土台がなくても入試にパスしてしまうという現象が起きる。 耐震偽装問題ではないが、基礎的な理解・思考に問題があるのだ。
まず、中学校の教科書レベルの数学や理科がイマイチ理解できていない人が散見される。高校の内容ともなれば、理解不足は顕著だ。それは散見というレベルではなく、どちらかというと学生のスタンダードなレベルはその辺りだ。中にはもちろん、脳内がどうなっているんだという天才タイプの学生もいる。努力も知らずに安易に天才といっては失礼だが、傍目からするとそう感じずにはいられないぐらい頭のキレがよく、やはり将来の日本の科学を背負いそうなタイプの人間だ。
入学前、僕はこういったタイプの学生が多くて、彼らのような人が研究者になっていくものだと思っていた。しかし、そうした人は実際はほんの一握りにすぎなかったのだ。

始めはみな入試の反動で学問を忘れて緩んでいるだけだと思っていた。
大学生は良く遊ぶ。この遊びは有意義で、そこからいろいろなものを吸収するし、過度にならなければモラトリアム期間としても良く機能する。自分と見つめあい、職業選択をじっくりできる期間となるのだ。
学生の立場でしかできないこともあまたあり、そういう意味で大学生活は素晴らしい。
ただその一方でいつになっても周囲の理系的リテラシーは感じることはできなかった。
大半の学生が研究室に所属する4年生になるまでまともな「実験⇒考察」という作業をしない。そればかりか研究室に入ってもその営みが必ずしもあるかどうかは疑問なほどだ。

何が悪いかといえば、個人は何も悪くはないし、その個人の集合が生み出す全体のトレンドがそうであっても悪いことではないかもしれない。ただ、日本の科学を支えてきた人、今活躍してる科学者・技術者の年代と比して、今の学生の学問に対する姿勢は非常に脆弱で、将来の日本が心配にも感じるのだ。
僕が学生に関して個人的に考える問題点は次の3つ。

①数学・理科の基礎的部分の理解に欠ける点
②学問に対する興味の薄さ
③問題を自分で設定できないこと

別にそれを全員ができる必要もないし、僕も全部OKなわけではない。だいいち、研究者にはならず、サッサとビジネスの方に足を向けてしまった身だし…。問題なのは、デキル人の割合が極端に少ないことだろう。
③は、すなわち「考察」ができないこととイコールだ。自分で問題を発見・設定することができないのだ。だからレポートは実験結果と「与えられた問題」に対する解答で終わる。与えられた問題に解答するには便利な図書館やネットがあるので、学生はみな文献を調べることは得意だ。答えが存在するし、本に載っているので簡単だ。しかし、いつになってもこれしかできなければ、新しいものは生み出せない。
教科書を読んで理解しているだけでは、少なくともその教科書の著者を超えることはできない。

ではそのような学生のルーツは何なのか。何がそうしたのか。
僕が思うに原因は大きく分けて2つだ。一つは根本的な教育の姿勢。アメリカ型教育に output の重視が見られたのに対し、日本の教育は input に主眼が置かれているという点。もう一つは社会の流れ。具体的に言うと、受験予備校のような一部の私立高校の存在と、早期からの塾教育だ。
前者は与えられた問題に対してしか「思考」できない頭を生む。後者はさらにその傾向を強め、思考回路を画一化する。ふつう問題を設定してから自分の答えに行き着く過程には何本もの道があり、それ自体に価値があることなのだが、こうした教育は最短の1本道しか提供しないばかりでなく、そこを通ることを強要する。さらに、情報やテクニックが溢れた時代では、学問に時間費用対効果を過度に求めるきらいがあり、ますます思考の画一化に拍車をかける。その結果学生は、自ら考えないパターン学習に慣れ、output の能力に欠けるようになるのだ。おまけにこのパターン学習は、基礎が理解できていない学生にも入試問題解答能力を生み出させ、彼らが基礎を理解できていないことを気づかせない。誰だって難関大学の入試問題が解ければ、自分は基礎ができていないとは感じにくい。

今お隣の韓国では入試や資格学習が白熱している。その度合いとくればもうすごい。世界でも韓国ぐらいだろう。子供が気が狂ったようにテキストを input し、大人になってからも、TOEICのスコアを追い求める。韓国の大手企業に入社する人はTOEIC900点が当たり前で、それ専用の塾もまた白熱している。だが、おかしなことに実際そんなに英語はできないという。日本の教育もややこれに似ているところがあり、初等・中等教育が資格学習に近いものになってしまったと感じずにはいられない。何か目的と手段を履き違えているような感がある。
韓国では来月に大統領選があるが、深夜まで塾通いが続くなど教育の過熱が問題となっていることに対し与党系の候補が大学入試を撤廃するという公約を掲げている。廃止までしてしまうのはどうなのか分からないが、その動向からは目が離せない。
日本も特に理科系の学生に関しては上述の①②③の問題を和らげることができるような教育を期待したい。 今注目を浴びている京都の堀川高校のような教育方法は僕は大いに支持する。探求科目と称された科目の研究分野をやっている生徒はその素養という点ではその辺の理系大学生を優に超えるだろう…。

ところで僕はというと、高校時代は非常にラッキーだったと思う。僕は自分の母校の精神や教育指針に誇りを持っている。最高の教育を受けたと思う。高校3年間の人生に対する寄与は計り知れない。特に物理の吉崎先生には感謝をしたい。 今思えば、入試の前に先生に頂いたアドバイスを全面的に受け入れていればよかったのだろう。多少の後悔の念はぬぐえない。
 

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